「この世のすべて」

自分がずっと小さなころ

うんざりしながら歩いたり走ったり
自転車をこいで目に飛び込んでくる範囲の風景が
「この世のすべて」だと思っていた

駅もスーパーさえない小さな町の記憶
記憶、と言葉にしてはみるものの、
思い出せる光景にいくら言葉を重ねてはみても
あのころの自分が見ていたもの、聴こえていた音、感じていたこと
ネガティブな感受性も含めて、その記憶とこのいまの記憶は異なるもの

小さな町だから目に映る風景の変化の無さ
それが逆に、「この世のすべて」感を
子どもなりに読み取るにはちょうどよかったんだと思う

「お前はまったく手がかからない子どもだった」と母親に言われる
気付くと一人でどっかにいって勝手に時間を過ごしていたらしい

代わり映えのない風景のなかに
それでも怖さやどうにもできない非力感や厭世観がつきまとっていて
たとえば、進学と同時に、過去は過去として切り離して
まったく異なるステージに進んでいきたい
ここから抜けたい、という
退屈以外の感情も多様にまざっていた


犬がとても好きで
いつも犬と遊んでいた
犬を遊びに付き合わせていた
しっぽ振るから喜んでいるなあと、雪上ですもうを教えたりされて
犬としては必死につないで立たされる手を甘噛みしていた
イマジナリーフレンドはたぶんいなかったけど
犬にはいろんな言葉を話しかけた気がする
夕陽も朝陽もいっぱい見た
いまでも犬と暮らすことは結婚と同じくらいの比重かもしれない
ヒトの死に触れる機会が人よりも少なかったせいか
犬の死やその直後の時間や感情の経過の方が色濃く残っている
臨終というものは何も感じられなくて
自分の目に映っているものが、それでも脳まで届かないこともあるのだと知った
「信じられない」という言葉は後で知ったけど、それとも違うと思った

とかく小さな町の記憶
飽きることに飽きていたり
あきらめることをあきらめていたりしたんだと思う

言葉はいつも後付けでしかない。


* * *


けっこうずいぶんなオトナになって
あのころの自分と”親子”になってもなんら違和感ない歳を生きている

たくさんのヒトを傷つけたし、少しだけ傷つけられたりもした


オトナになった自分は、
子どものころの自分がきっと想いもしてない時間を重ね、
「この世のすべて」のきっと何万倍もの距離と風景をなんとなく通り過ぎてきてしまった

大きくなった自分には
「すべて」だった「この世」が見えにくくなってしまっている
大切なことは、小さな町にいたころの小さな自分が思い出させてくれるのかもしれない

今日
これから目に映ってくる風景や時間を
この世のすべてなんだ、って少しは思っていたい
錯覚でもいいから


時間を止めることが
大きくなった自分にはできなくなったのかもしれないけど
立ち止まることもしたかったんだよなあと、そう思い出すことはできる


一つだけ、
小さいころの自分がちょこんと犬と一緒にそこに居たなら、
(俺は素敵なともだちにたくさん出逢って
そして、ずっとそのひとたちのことが好きなんだと思う)
って、言葉にして伝えるんだろう。
間違いなく、つかんだ手を犬に甘噛みされながら。

投稿日:2009.06.22
投稿者:straightreさん
掲載ブログ:hands across the Japan
※SNSなどログインしないと閲覧できない場合がありますので、ご注意ください。

拍手する
125拍手

注目のブログはこちら


閲覧したブログに応援の気持ちを込めてボタンをクリックしましょう。押されたボタンの回数は、カウントされ、サイト管理者の励みとなり、やる気となって、今後のブログ更新の励みになっていくことでしょう。

このページの先頭へ

created by CS-REPORTERS