
記憶のクリエイション。
一昨日。浅い眠りで目覚めた4:30。
「あきらめたくなかったんだ」と薄らぼんやり朧げに考えていた。
ゆるく、軽く。
あきらめたくなかった。
自分なりの紆余曲折についても、
まったく先が見えないことについても。
”過去”という先のことも、
”未来”と言われる(そんなもの実際は、「未」だから時間としてないんだけど)先のことも。
とりあえず一言でいえるなら、あきらめたくなかった。
失敗だといろんなヒトに言われても、
挫折だーって一人で悪循環の無限ループから抜け出せなくて、卑屈になって、
ヒトの励ましが耳に入ってはまったく脳まで届かなくても、
とにかくあきらめたくなかった。
だから、今こうしてここにいるんだと思う。
やっぱりヘラヘラと笑っていたり、
ぼーっと好きなことを好きなままにしては、悩みなさそうでいいね、
とニコニコされたり。
すべては後付けの言葉やわざとらしい意味付けでしかないのだけど、
でも、あきらめたくなくて、
自分の行動や過去に”やってしまったこと”を美化したい煩悩のままに。
* * *
通り過ぎたヒトたち。
いつも頭の中にあって、ときどき怖いくらいに鮮やかに蘇る。
いいことも、そうでないことも。
逆に言えば、自分もまた、そのヒトたちの頭の中で、
ときどきは、まだ走っては転んだりしているんだと思う。
記憶は塗り替えられるもの、と
”忘れる天才”と評された自分でも、たまにふっと思うんです。
この先、前を向いたときに見えた「先」の時間を、
自分が充実させたくて、それ相応の努力を積み重ねて、
現在の周囲のヒトたちだけではなく、
いつか通り過ぎたヒトたちの耳に何か一つでも、「姿」として届いたら、
走って転んだままの記憶の自分が、
また、よっこらせと立ち上がって危なっかしくそれでも走り始める姿を、
ちょっとでも想ってもらえたら、それはとても幸せなことで、
そういう伝え方もあるのかなあと思う。
記憶のクリエイション。
不器用な自分にとっての創ること、創り直すこと、
けちょんけちょんになったときでも種火のように微かに残っていたから、
だから、あきらめたくなかった。
そういう生き残り方だってあると思っている。
* * *
不言実行という言葉が私的にはあこがれるけど、
有言実行という言葉もまた好きだ。
要は、限りなく今の自分ができる『めがね』に近い状況。
海、ジョッキ(小)、瓶ビール。
「ここで飲むビールはサイコーです」とつぶやいてみた。
サイコーだ。
* * *
寺泊にある骨董品長屋。
長屋と勝手に命名したのが10年近く前。
最近の山奥借家構想と、「ろくろく」のことも兼ねて、散策。
たいていは食器類がまず多かったけど、
気になる家具や小道具も次々と出るわ出るわ。
誇りまみれの”記憶”に釘付け。
動いていたつもりの自分が本当は立ち止まりたいこと、
こういう知り方だってあるんだと思った。
書くことや聴くことに関するものに惹かれる。
1人の手に記憶が宿るように、
道具に宿る、何人もの記憶。
道具がヒトとヒト、ヒトと時間をつなぐものだとしたら、
自分はどんな道具を使って、いまの時間をつないでいるんだろう。
万年筆は無くした。タイプライター、欲しい。
いずれにしても、不便の裏で、不便だからこそ、
ものを書くことってもっと大切で、意味のある行為だったと尊敬に近い感情がある。
言葉を選ぶこと、相手の顔を思うこと、
独りよがりの言葉になってやしないかと推敲を重ねること。
簡単、手軽になることと、不便や難儀との間にある大きな川。
* * *
エバンジェリスト。伝道師。
「川」の意味を伝えてくれるヒト、刺激は、
やはり自分には農的な暮らしに潜んでいる気がします。
<重要なことは自分が何を伝えたいのか。
それにはどう伝えたらいいのか。
自分の頭で考えることでしょう。>
柔らかさという強度。
緩さというあたたかさ。
軽さという重さ。
投稿日:2009.06.12
投稿者:straightreさん
掲載ブログ:hands across the Japan
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